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小諸城本丸なわばり

本丸なわばり
 1590年小田原征伐ののち仙石秀久は5万石で小諸城に入城。武田信玄の軍師山本勘助などが築いたなわばりを近代城郭に改修し現在我々が見る城跡を築いた。
北西の角に張り出した石垣には三重の天守が築かれた。金箔押瓦が出土している所をみれば天守閣は存在いていたはずである。しかし現在までに図面などは確認されていない。
小諸城は天然を利用した要塞なので火山灰など4百年の風雨、大水などで石垣などはかなり築城当時と違うとしても、本丸石垣がほぼ残されていることは嬉しい。
三の門、大手門はもちろんの事二ノ丸、二ノ門南丸櫓、中仕切り門等々かなり正確な図面や絵図が残されている。しかしながら本丸に関しては記述が少ない。
 本丸は四方を石垣で囲い中に本丸御殿おく連立式である。それほど大きくない本丸にしては虎口が東に正門の虎口北に東に裏門の虎口と三つある。どれも立派な門ではないが二重に作られ防御している。
 今は桜の馬場と呼んでいるが、当時は低い石垣で囲われ(浅間の噴火でできた焼け石か)千曲川の断崖を登ってきても本丸に近付けさせない防御壁の役目があったと考えられる。
 天守は石垣の大きさからしてそれほど高くなかった。天守の登り口から東の石垣は上部が広い所をみると、隅に一層の櫓があり連結式の様な作りであったか(山城館なる旅籠、小料理屋が石垣の上まで占領している)
三層の天守とはどんな天守であつたんだろうか。1590年代の築城を考えると入母屋の屋根に望楼を乗せた型がしっくりくる。古くは丸岡城、近世では諏訪の高島城、浜松城などが上げられる。一層部分は白壁ではなく下見板張で
松本城のように黒漆が塗られ実戦向きと考えられる。惜しくも寛永3年(1626年)落雷により消失。世の中は秀忠の時代になり再興は許されず、又全国統一の中で天守自身が役目をおわれ、象徴としてしかなかったはずである。
小諸城は穴城である町民、百姓などどれほどの人々が天守を見る事が出来たであろうか。むろん北国街道からも僅かしか見えなかったはずである。布引き観音の上あたりからは本丸を有一見る事が出来たであろうか。
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