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小諸城 再考

     仙石秀政氏の考えた小諸城縄張りの鳥瞰図
 
 小諸城は平安~鎌倉にかけて小室太郎光兼氏が現城址の東側に館を構えた。
1487年(長享元年)大井光忠氏により鍋蓋城を(本町市町の間)を築き
その子の光安氏が支城として乙女坂城(二の丸跡)を築く。天文2年
武田信玄は小諸城を攻略すると、馬場信幸、山本勘助に命じ現在の縄張り
を命じ、小諸城の原型が完成した。
武田氏滅亡後、天正18年豊臣秀吉により仙石秀政が5万石で入城。現在
見られる石垣、土塁、門、櫓、三層の天守閣も構築。
関ヶ原に向かう東軍秀忠が真田親子の上田城を開城させるため小諸に陣を
おき、攻めるも惨敗。二十日ほど足止めをくらい、ついに関ヶ原の合戦に
間に合わなかった話は有名である。
仙石氏が上田に転封後、徳川方の青山、酒井、西尾、松平氏が領し牧野氏
で明治を迎える。

 子どもの頃懐古園は花見や写生と絶好の遊び場所でした。石垣も登った
事もあります、今ほどうるさくなかったのですね。谷底を通って千曲川に
降りたりしました。
 大手門が近年再建されましたが、当時は駅側に中央と言う映画館があり
その隣に柵で塞がれたスペースがあり、奥になにか古い宿屋があったなと
記憶してます。それが大手門でした。
明治になり駅の重要性を考え、三の門から懐古園として大手門、三の丸が
すべて破壊されました。三の丸は戦後長らく千曲バスのプールとして使わ
れていました。それにしても大手門から三の門までは広大な敷地でした。
今は町名のみですが駅より上がる所に鹿島町があります。当時はここに
鹿島神宮の森がありました。町の発展のために移されています。
小諸城は穴城と呼ばれるように街が(北国街道)上にあり、城は天然の浸食
された台地に三角形を形成させ入り口を狭くとってあります。谷は地獄谷
と言われるほど深い絶壁でおまけに火山灰のためにくずれやすく簡単に
谷より登ことはできません。
崩れやすい地質で何度かの鉄砲水や四百年前を考えると、当時の縄張りと
かなり違う部分があるはずです。例えば二の丸石垣など。今の懐古園とは
違い、いたるところの防御策はむしろ戦闘的に造られてました。江戸の
古地図を参考に当時はどのようなお城であったか推察してみたいと思い
 これはあくまでも私一個人の私見であり、少しでも当時のお城の
面影を再現したいと考え作図しました。
小諸城縄張り
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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