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二ノ丸水櫓跡


現在の石垣。水槽跡に向かい左に張り出ていた。
nino-isigaki2.jpg
料金所の奥に4段ほどの石垣が水櫓跡。
nino-isigaki3.jpg
動物園入口に通ずる茶店昔からあった。裏手はかなり崖が1メートル以上崩落している。石積みも跡形もない。
mizuyagura-1.jpg
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二の丸南より

二の丸南より
久ぶりに更新します。
少し前ですが4月20日小諸に行きました。ちょうど桜が満開で何年ぶりかで見事でした。

今回南より二の丸全貌にしました。
ちょうど真ん中に二の丸に上げる水櫓があり今と違い三の門よりまっすぐ二の丸に向かう坂でなく水櫓を迂回して急な坂を上るよう造られている。二の門に向うには枡形で南丸との連携で撃退できるよう狭く、先が見えないように工夫されている。南丸(左側)は今はかなりくずれて狭くなっているが当時はこのような櫓が連座していた模様。二の丸には今は跡形もない見張り櫓がつきでていたし今の大きな石垣とは違い小さな石をくんでいたのが分かる。
小諸城は天守以外はかなり図面がのこっているので現在の地図と重ね合わせるとほとんど変わっていない所が多い。

小諸城全体図

小諸城全体
なかなかup出来ないまま年を越してしまいました。
 本年のNHK大河ドラマは真田丸ですね。小諸は徳川方ですね。さぞや関ヶ原に向う大群が街道を埋め尽くしたでしょう。
1600年にイラストの様な城が完成いていなかったとしても、大阪冬の陣までには、このような城の造りが出来ていた事でしょう。築城をかなり急いだ模様。
 イラスト上が東で本町木戸口があります。
手前が西で千曲川上空より俯瞰しました。三層の天守、本丸御殿、奥など想像です。自然の地形をうまく取り入れかなり要塞色の強いお城だと言うことがお分かり頂けると思います。
古地図と現在地図参考に描きましたが、どこまで表現出来たか分かりません。小諸に足を運んでいただく方の参考になればと考えています。

小諸城 本丸御殿

goten-nantou.jpg
 小諸城本丸御殿図を描いてみました。
なかなか資料が無く現地の大きさから想像してみました。
参考物件(ぎょうせい 日本の城)に玄関がわの図面が有ることをしりました。
 紅葉谷の最後の黒門をぬけ左の枡形前方に石垣に挟まれてはいるものの、独立した門が立ちはだかる。
中門をくぐると玄関が右前方に見える。中門と玄関は少しずれている。
門の南にはそのまま庭に出れる垣根があったもよう。
廊下は東と南にあって時計の間、大広間、お使者の間、大書院、小書院などが所狭しと並び、奥には
殿様の住居があったと思われる。今の懐古神社の辺。
 一番古いと思われる図面は上田のアーカイブスにある仙石家の図面であろう。ただし正確さにはほど遠い図面であるが、だいたいの位置関係で現在の地図をかさねてみた。
本丸は小さいわりに3カ所も虎口があり無いのは馬場側の石垣だけである。
南は有一馬場側からの出入りが出来るので3重の囲いか門が有ったもよう。
もう一つイラストで右側の虎口は黒門をぬけ左ではなく右にいき天守閣に向かう道にも門がありやはり2重に出来ていた。
今は山城館が鎮座しているけど当時は天守閣よりのび隅櫓があったかもしれません。
山城館のあたりに殿様のための台所などあったもよう。
最初の玄関左イラストの下手前にはおおきな武者走りが今も階段状にみごとに残っている。
 南側廊下より突き出た部屋があり小さな庭に出る階段があったか!
 前にも述べましたが、小諸城の塀は下目板張りではなく白壁が多かったもよう。
デザイン的なものか下目板張りのほうが強固なはずだが・・・

 この想像図は学術的になんの根拠もありません。私の思いをただ想像したに過ぎません。あしからず!

 小諸城は小さな穴城ですが仙石氏が拝領したのは5万石です。それほどの小大名ではありません。先を急いだ関ヶ原前夜 武田氏等が築いた城に最小限の装備を施したと深く感じます。門の作り方も石垣があり その後門をつけたと思えてなりません。
                                               シマ


小諸城天守閣をイメージ

CG天守

 永い間ご無沙汰でした。
 本丸についていろいろ考えてはいたのですが、何せ私の元にはほとんど資料らしきものは無く。古地図などでは本丸石垣までしか描かれておらず、本丸御殿の規模や石垣の塀、櫓、門など分かりません。現地の大きさから判断するしかありません。
天守台に登ってみて、三層の天守は思っているほど大きくはなかったはずである。
 自然の地形を利用して造られているのは分かったが、どうも城を造るのを急いだのか、門と言う門がどうも後から付け加えた様な気がする。
仙石氏が1590年に登城する前にかなり縄張りが進んでいて、10年後に関ヶ原なのでかなり短時間で築城をいそいだのであろう。5万石の大名にしては小諸城は少々小さかったのでは・・・

三層の天守をCGで現在の石垣にのせてみました。
犬山城のように三層四階も考えられる。家康の浜松城の規模は小諸城と同じくらいの三層である
入母屋造りに望楼をのせた形・・・
一層目は耐久性を考え下目板張り二層目、三層目は漆喰で白亜に。廻り縁は形だけで外には出られなかったかもしてません。
 当時瓦は天守閣と後の大手門のみで黒門、二ノ門、三ノ門はこけら葺きでした。
小諸城本丸は北、南に大谷で西は千曲川にせり落ちる自然の地である為一般庶民が常に目にすることは出来なかったはずである。僅かに見えたのは千曲川の対岸の上の方、ちょうど布引き観音あたりか、今の鹿島神社あたり北国街道の市町下がったぐらいの所。
穴城なのでなかなか庶民は見てないので絵図としても残っていない。

 CGは北西 水の手方面から描いています。
                            
                     *CGはあくまで私の想像です  シマ


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