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小諸城全体図

小諸城全体
なかなかup出来ないまま年を越してしまいました。
 本年のNHK大河ドラマは真田丸ですね。小諸は徳川方ですね。さぞや関ヶ原に向う大群が街道を埋め尽くしたでしょう。
1600年にイラストの様な城が完成いていなかったとしても、大阪冬の陣までには、このような城の造りが出来ていた事でしょう。築城をかなり急いだ模様。
 イラスト上が東で本町木戸口があります。
手前が西で千曲川上空より俯瞰しました。三層の天守、本丸御殿、奥など想像です。自然の地形をうまく取り入れかなり要塞色の強いお城だと言うことがお分かり頂けると思います。
古地図と現在地図参考に描きましたが、どこまで表現出来たか分かりません。小諸に足を運んでいただく方の参考になればと考えています。
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小諸城本丸全体

honmaru-zentai 久しぶりに画像をアップします。
ようやく現懐古園の本丸の検証が終わり私なりに、1600年代の仙石秀久の小諸城本丸を鳥瞰図にしてみた。
いくつか残っている絵図を参考にしてみましたが、残念な事にどれも曖昧で本当の寸法が分からず頭の中が混乱、特に本丸御殿の大きさが分からず、5万石の大名にしてはちと狭い。のちに現弓道場が隠居場所になったのもうなずける。
 それにしても400年の歳月で火山灰台地で崖など変形しているにも関わらず、石垣その他が今に現存している凄さもある。そんな訳で四苦八苦、現在の地図と重ね合わせおかしな所は修正。なるべく当時の位置寸法にそうようにしてみた。
 絵は北西の方向(小山敬三美術館)より鳥瞰。左が二ノ丸より算盤橋を渡り黒門(一の御門)本丸。右にくの字におれると現紅葉谷で明の地、中門をくぐると右は天神社、荒神社が祀られている。大楠はこの一角か。石垣をくの字に折れると天守台の下に出る。広い馬場は今と違い土塀に囲まれ複雑な形をしている。敵が安易に石垣に近づかせせない防御の意味もあったのか。
 真っ直ぐ進むと水の手ここは眼下千曲川対岸を一望出来る見張り台。
 水の手の途中のちょっと小高い所に東屋があり、ここから殿様が城をながめたであろう絶好の場所である。
当時天守閣は一般庶民は市町方面か千曲川の対岸高台ぐらいからしか見えなかったはずである。
 四面空堀といってもとてもとても登れる崖ではない。自然の地形をうまく利用していて四隅を石垣で囲った本丸はさぞかし優美で端正そのもので有ったろう。

小諸城 本丸御殿

goten-nantou.jpg
 小諸城本丸御殿図を描いてみました。
なかなか資料が無く現地の大きさから想像してみました。
参考物件(ぎょうせい 日本の城)に玄関がわの図面が有ることをしりました。
 紅葉谷の最後の黒門をぬけ左の枡形前方に石垣に挟まれてはいるものの、独立した門が立ちはだかる。
中門をくぐると玄関が右前方に見える。中門と玄関は少しずれている。
門の南にはそのまま庭に出れる垣根があったもよう。
廊下は東と南にあって時計の間、大広間、お使者の間、大書院、小書院などが所狭しと並び、奥には
殿様の住居があったと思われる。今の懐古神社の辺。
 一番古いと思われる図面は上田のアーカイブスにある仙石家の図面であろう。ただし正確さにはほど遠い図面であるが、だいたいの位置関係で現在の地図をかさねてみた。
本丸は小さいわりに3カ所も虎口があり無いのは馬場側の石垣だけである。
南は有一馬場側からの出入りが出来るので3重の囲いか門が有ったもよう。
もう一つイラストで右側の虎口は黒門をぬけ左ではなく右にいき天守閣に向かう道にも門がありやはり2重に出来ていた。
今は山城館が鎮座しているけど当時は天守閣よりのび隅櫓があったかもしれません。
山城館のあたりに殿様のための台所などあったもよう。
最初の玄関左イラストの下手前にはおおきな武者走りが今も階段状にみごとに残っている。
 南側廊下より突き出た部屋があり小さな庭に出る階段があったか!
 前にも述べましたが、小諸城の塀は下目板張りではなく白壁が多かったもよう。
デザイン的なものか下目板張りのほうが強固なはずだが・・・

 この想像図は学術的になんの根拠もありません。私の思いをただ想像したに過ぎません。あしからず!

 小諸城は小さな穴城ですが仙石氏が拝領したのは5万石です。それほどの小大名ではありません。先を急いだ関ヶ原前夜 武田氏等が築いた城に最小限の装備を施したと深く感じます。門の作り方も石垣があり その後門をつけたと思えてなりません。
                                               シマ


小諸城天守閣をイメージ

CG天守

 永い間ご無沙汰でした。
 本丸についていろいろ考えてはいたのですが、何せ私の元にはほとんど資料らしきものは無く。古地図などでは本丸石垣までしか描かれておらず、本丸御殿の規模や石垣の塀、櫓、門など分かりません。現地の大きさから判断するしかありません。
天守台に登ってみて、三層の天守は思っているほど大きくはなかったはずである。
 自然の地形を利用して造られているのは分かったが、どうも城を造るのを急いだのか、門と言う門がどうも後から付け加えた様な気がする。
仙石氏が1590年に登城する前にかなり縄張りが進んでいて、10年後に関ヶ原なのでかなり短時間で築城をいそいだのであろう。5万石の大名にしては小諸城は少々小さかったのでは・・・

三層の天守をCGで現在の石垣にのせてみました。
犬山城のように三層四階も考えられる。家康の浜松城の規模は小諸城と同じくらいの三層である
入母屋造りに望楼をのせた形・・・
一層目は耐久性を考え下目板張り二層目、三層目は漆喰で白亜に。廻り縁は形だけで外には出られなかったかもしてません。
 当時瓦は天守閣と後の大手門のみで黒門、二ノ門、三ノ門はこけら葺きでした。
小諸城本丸は北、南に大谷で西は千曲川にせり落ちる自然の地である為一般庶民が常に目にすることは出来なかったはずである。僅かに見えたのは千曲川の対岸の上の方、ちょうど布引き観音あたりか、今の鹿島神社あたり北国街道の市町下がったぐらいの所。
穴城なのでなかなか庶民は見てないので絵図としても残っていない。

 CGは北西 水の手方面から描いています。
                            
                     *CGはあくまで私の想像です  シマ


小諸城 本丸御殿1

honmaru-goten.jpg

1600年頃関ヶ原前後に築城 北西上空より俯瞰
 現在の本丸の中の御殿を描く。古い図面でもほとんど正確に描かれているものが無いので私の想像の範囲で現地図の上に描いたものである。
 虎口が3カ所あるがどれも石垣に組み込まれていない。以前からあった石垣の所に門を後から付けたと考えられる。
御殿は本丸枡形から入り玄関も門とずらしてある(左上)。玄関上がって左手には大広間、客人控え室、奥には大書院、小書院など玄関右は小さな間が女中の間、学問の間、家臣の控え室など。
さほど広くない本丸に所狭しと連立されていた。南側に僅かに庭らしきものがあった模様
南側は馬場側の奥とつながっていて殿様の住居。天守の下には廊下で繋がるている台所かな。
本丸は幾十にも塀と門でなかなか中を見せない造りである。
 本丸は北と南は断崖絶壁で攻められるとしたら西の千曲川から上がってくる敵である。馬場(イラスト右)は今はさくらの名所でのんびり出来るが当時の馬場は低くではあるが本丸石垣に容易に近づかせない為石積みがされていて、防御の役目でもあった。馬場は円形ではなく往復だけの馬場である。
 三層の天守はぬり込めでもう少し白い部分が多いかった様な気がする。
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